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翠は翠なんだから、それでいいやん。--そんなひとことを、だれかにいってもらいたかった。
翠自身、「うちはうちやもん」と胸を張りたかった。ずっとずっと待っていた。

                                             ~ねらわれた街~あさのあつこ





三寒四温

冴え返り


これらの言葉を今、ありありと実感しています、香川の瑠華です。
昨日は15℃となんてポカポカだったのに・・・・・・。

今は・・・・・・。

家、揺れてます。

朝も風の音と、雨が窓に叩きつけられる音で目が覚めたもん;
いやー、今日学校行く予定にしてなくてよかったぁ。
マンションだから、ビル風みたいな感じで、風の強い日はほんと、うるさいんです。

もう晴れたけど、風のせいで、1人っきりの部屋はなんか寒々しい(-ω-。)
ホットカーペットすら、機能してない気がするもん。笑


2008年の2月23日はそんなだけど、1865年の2月23日はどうだったんだろ。
1865年の今日は、新選組総長・山南敬助が切腹した日です。

1865年の昨日、山南さんは
「江戸へ行く」

「私は卑しくも副長に従事する身。その言葉を聞き入れられないのは、土方の奸媚のためである。」
と置手紙を残して、新選組を脱走しました。

その脱走理由には諸説あって。

1.屯所移転に反発
この頃、新撰組では隊士が増えすぎて、壬生の屯所が手狭になってたの。
んで、土方さんらは移転を考え、その移転先には西本願寺がいいって事に。
というのも、西本願寺は勤王の色が濃くて、長州藩とも関係が親密だったから、そこに移転することで、動きを牽制しようとしたわけです。
当然、寺側としては、そんな監視をされることはもとより、敷地内で砲術の練習や殺生をやられては堪らんわけで。
移転中止を願い出たけど、近藤さんたちは聞く耳持たず。

寺の味方をした山南さんも、意見を聞き届けてもらえず、それに反発して脱走した、と。

2.新選組の指針に疑問を抱いて
尊皇攘夷という目的で結成された新選組。
でもこの頃は尊皇攘夷の名の下に、志士を弾圧してる、って山南さんは思ってたらしい。
彼はもともと、勤王のほうにも傾いてたしね。

ま、あとはいろいろ。
同士と思ってた伊東甲子太郎に失望したとか、さ。

そうやって脱走したのに、翌日、山南さんは追っ手の沖田さんに連れられて、屯所に戻りました。

永倉さんや伊東さんは、後の事は自分たちに任せて、もう1度脱走するよう勧めたけど、山南さんは静かにそのときを待った。
それでも永倉さんの配慮で切腹の時間が遅らされ、彼は山南さんの馴染みの芸妓、島原天神明里に使いを走らせました。
これは割りと有名なエピソードかな。


切腹の刻限に明里が到着し、屯所の出窓越しに今生の別れをしたあと、山南さんは希望通り、沖田さんの介錯により切腹を遂げました。
その切腹を、近藤さんは
「浅野内匠頭でも、こう見事にあい果てまい」
と賞賛し、
あの土方さんですら、涙したとか。

そして参謀の伊東さんは、彼の死を痛んで、和歌を詠んでる。
素敵だなぁと、いつ見ても思う♪

   春風に吹き誘われて山桜 散りてぞ人に惜しまれるかな
      吹く風にしぼまんよりも山桜 散りてあとなき花ぞ勇まし


山南さんのお墓は、京都の光縁寺にあります。



と・こ・ろ・が
ここまでツラツラ書いてきて、実はこの一件、脱走ではなかったという説もあるんだよね。

というのも彼が沖田さんに捕まったのは、近江の大津。
京から大津までの距離が問題ならしいです。

近すぎるのだ、と。

本気で脱走する気なら、追っ手がくることを考えて、できる限り遠くへ行こうとするはずなのに。
山南さんは大津で宿を取っていた。
それが脱走というには不自然だから、だそうです。
おまけに、明里を呼びにやらせたとされている永倉さんの手記にさえ、この脱走のことは書かれてない
・・・・・・いろいろと謎の多い事件だったわけです。

この事件を思い出す(!?)とき、知識人とされてる山南さんは、やっぱいろいろと考えすぎたのかなー、って思う。
乱世は考えすぎちゃいけないよ、きっと。
うん。
・・・今H20年に来ても、彼はきっと悩みまくるような気がするけど・・・気のせいかな?笑
今は乱世なのでしょーかヽ(′∀`)ノ

なんか哲学っぽくなりそうな気がする瑠華でした!
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死ぬときに死ねた者は仏になれる
死ねなかった者は鬼になる
生きながらにして鬼になる
鬼、ここに誕生す

                                            ~消える総生島~はやみねかおる




ふふーん♪( ̄ー ̄)v
1866年の今日は、新選組の会計方・河合耆三郎が切腹or斬首となった日です。

すごく悲しいエピソードの1つ。
大河でも結構涙誘われるように、描かれてた、らしい。
あたしは見ていないので。笑


河合耆三郎は、播磨国高砂の蔵元(米問屋)・河合儀平の長男坊です。
文久3(1863)年、上洛し、浪士組に入隊しました。

商家の出身ってことで、経理の才があって、新選組の勘定方を任されてました。
8月18日の政変や、翌元治元(1864)年の池田屋事変にも参加してて、池田屋の功で15両の褒賞金を賜っているそうな。
文武両道とは、このことかな(--;)
羨ましい・・・。
禁門の変にも出動し、長州藩撤退後の残務処理に奔走。


しかしそんな河合の坊ちゃんに、心臓が凍るような出来事が降りかかりました。
慶応2(1866)年2月2日、彼は隊の軍資金が50両不足していることに気付きます。

近藤さんは長州に出張中で、その留守を預かる土方さんにばれちゃあ、ただでは済まん!と、密かに実家に飛脚を立て送金を頼みました。
しかし、そんなときに限って、金の不足を知ってか知らずか、土方さんはまとまった金がいると言い出すんです(-"-)

隊士の新井忠雄は、
「例の京屋へ渡す500両の金というのは、何でも近藤勇が深い仲になっていた島原の深雪太夫を身請けするのに入用の金だったというから、河合も実にとんでもない事に引っかかってしまったものだ」
と、語り遺しているそうな。
確かに。
っていうか、身請け金なんて隊費から出すのか?
・・・・・・お金が足りてないのを知ってて、無理言ったようにしか思えないよ・・・。
でも、そのために隊費不足が露見し、坊ちゃんは謹慎となります。

でも、このお金の不足理由にも諸説あって、
坊ちゃんが武田観柳斎に資金として貸し出したとか(大河で使われてるらしい)、
本当に盗まれたとか、
いろいろと言われています。

本来なら、直ちに切腹となるところだったけど、坊ちゃん必死の懇願で、実家からの飛脚の到着を10日、待ってくれることに♪

しっかし。
悪いことって、重なるんです。

本来ならば3日もあれば届くはずの飛脚が、10日経っても来ない。

届けば、監察方で土方さんを説き伏せて、除名処分くらいにしてやろうって話だったんだけど。
日が暮れても、結局飛脚が届くことはありませんでした;
実は、実家では坊ちゃんの父さんが外出中で、飛脚の持ってきた文がそのままにされていたのです。

そしてとうとう、坊ちゃんは12日に斬首となりました。
介錯を行ったのは沼尻小文吾
なんと、彼は一の太刀、二の太刀と首を斬りそこなったとか・・・!
どうやら沼尻さんは、柔術が得意な方で、剣はソコソコだったらしいです。
坊ちゃんがうな垂れてたために、首に一の太刀が上手く入らず、失敗。
悶絶した坊ちゃんに慌てて二の太刀を入れると、頭が斬れた・・・そうです。
享年27歳。

坊ちゃんは、死の直前まで、飛脚の到着はまだか、まだかと尋ねたと言われてます。
その飛脚は、彼の死から3日後に到着しました。

坊ちゃんの死を知った遺族は、屯所に来て騒ぎ立てたり屯所の前を練り歩いたりと、新選組への嫌がらせを繰り返しました。
そりゃねぇ( ̄д ̄。)
武士でも納得し難い法度で、息子が殺されるなんて。
きっと商家の人には、信じられないだろうね。

この逸話の真偽は未だに明らかになっていません。

お金の貸し借りは3日以内に清算してしまおうと肝に銘じる瑠華でした!
2007.12.18 斜陽のように
タイマーでこんにちは。
本日は、新選組関連の記事を。

今日は近藤勇が、御陵衛士の残党に右肩を撃たれた日。

先月、油小路で伊東甲子太郎が暗殺されたから、その乱闘で生き残った御陵衛士たちは、復讐の機会を狙ってたんだ。
で、訪れた絶好の機会。

この日、残党の3人、阿部十郎・佐原太郎・内海次郎が、近藤さんの妾宅で休んでる沖田さんを襲おうとしたんだ。
でもそこに沖田さんはおらず、失敗。

ところがところが。
夕方、阿部ってやつは、京都市中で二条城から伏見に戻る近藤さんを発見しちゃったわけですよ。
んで、急いで匿ってもらってた薩摩藩邸へダッシュ⇒
仲間に知らせます。
篠原泰之進・富山弥兵衛・加納道之助・佐原太郎というメンツを誘って、2挺の鉄砲を持ち出し、伏見街道を南下する近藤さんの一行を待ち伏せー。
このころ、新選組は鳥羽・伏見の戦に備える形で、屯所を伏見に移してたからね。

民家の陰に隠れて待ち伏せする間もなく、「来た来た」と言うなり富山弥兵衛が発砲。
どうやら狙いは全然つけてなかったらしいね。
落ち着け、弥兵衛。
しかし下手な鉄砲、数打ちゃ当たるってやつで。笑
1弾が近藤さんの右肩に命中しました。
一説に、襲撃が行われたのは夕刻じゃなくて、夜間だっていう説があるんだけどね。
通行人の目撃証言によるもので、時刻は午後7時頃。
冬だから当然、真っ暗。
狙撃者は新選組の提灯の明かりを標的にしたんだろうけど。
そんな中で命中するなんて、奇跡的じゃあなかろうか。

近藤さんは驚き、負傷しながらも落馬することなく馬を走らせ、伏見奉行所に駆け込んだ。
すごい精神力(゜д゜)
撃たれて馬走らせるって・・・。
近藤さんには島田魁さんをはじめ、4人の隊士が護衛に付いてたんだけどね。
隊士の井上新左衛門と下僕の芳助って人が、斬られちゃった。

この狙撃事件で近藤さんは、肩の骨を砕かれるという重傷を負ってしまいました;
多分もうこれ以降、刀も持てなかったはず。
その治療のために、結核の悪化していた沖田さんと一緒に、大坂に下りました。
湯治とかかな。
それによって、後の鳥羽伏見の戦闘は土方さんが指揮を執ることに。

局長が戦線離脱し、鳥羽・伏見で大敗し、新選組は敗走を続けてくね・・・。
言ってみれば、この事件がその始まりかな。
弾みがつくと、物事っていい方にも、悪い方にも転がってくから怖い(--`)

それでも自分の人生これから楽しみだなと思う瑠華でした!
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